自己肯定に感じる違和感
今、アドラー心理学の「嫌われる勇気」を読んでいる。
わたしは長年、「自己肯定感」という言葉に違和感を持っていた。
なぜか。
その言葉から「無理矢理感」を感じずにはいられなかった。
だけど、世の中は
「自己肯定がたいせつ」
だとか
「自分を愛そう」
とか
「愛、愛すること、愛してる」
なんて言葉がまるで酔っ払いオヤジのように溢れかえってる。
自分を肯定するって、どんなことなのか
いろいろやってきたけれど、
やっぱりわからなかった。
「嫌われる勇気」を読んで
だけど、嫌われる勇気を読んで
そのモヤモヤした違和感が晴れた。
それは
「自己肯定」ではなく
「自己受容」すること
だと。
ふたつの言葉は似ているようで
まったく別物だということ。
1.自己肯定
できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と自らに暗示をかけること
=「自ら嘘をつく生き方」
これは優越コンプレックスにも結び付くようだ。
2.自己受容
仮にできないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んでいくこと。
=自らに嘘をつくものではない
具体的に…
60点の自分に、たまたま運が悪かっただけだ。ほんとうの自分は100点だと言い聞かせるのが自己肯定。
それに対し、60点の自分をそのまま受け入れたうえで「100点に近づくにはどうしたらいいのか」を考えるのが自己受容。
アドラーは私たちの苦悩をあまりにもシンプルに壊してくれる
そう考えると、同じような意味でもまったくちがうことがわかる。
そこで私たちは普段、どちらを選択しているのだろう。
肯定しよう
もっと肯定しよう
肯定しなきゃ・・・。
それなのに自分を肯定できないのはなぜだろう。
それは、無理矢理肯定しようとし続けてるからじゃないのか。
長年感じていた「自己肯定の違和感」を
嫌われる勇気によって
あまりにもシンプルに、簡単に壊されてしまった感覚。